せいかつ3


地区介護者会議と出会うまでの3年間いろんな人の親切や協力でどうにか暮らせていましたが、人の言葉に耳も貸さずお礼の言葉も口にしないカッコだけの王様は寂しい王様になりました。
地区介の介護者と知り合うまでは障害者など社会的に弱いと言われる人へ手を貸してくれる人たちは全てボランティアと一括りに思っていたわたしには介護者は驚きでした。それまでわたしの周りにいた人達は数人を別として最初に「障害者だから」「障害者のくせに」があったように思います、同情とか憐れみの上での関係は蜘蛛の糸よりも頼りなく細いものだということはずっとずっと子供の頃から意識しているのに勝手に頼ったりあてにしていましたが案の定!?だったのに対して介護者はわたしを好きとか嫌いとかのレベルではなく、差別社会の中でどう生きて行くのかとするところで介護を続けてくれていたのです。そうした思いに気付いているのかないのか私の我儘振りは傍若無人的に発揮され続いたのです。そうした態度では本当の善人にも遠ざかられるのも当たり前で毎日寂しくなりました。介護者たちのおかげで続けてこられた地域生活ですが震災後のここ数年特に地区介護者会議への参加者が少なくなり、私の生活もヘルパーへの依存が年を追う毎に多くなっています。
身体が動かなくなって介護者も少なくなるとヘルパーに頼るしかなくなります。然し今日日のヘルパーはそうしたこちらの足元を見透かした人が多く居て30年前の施設職員のように人を見下してきます。介護にお金が介在することについては地区介でも何度か議題になっていろいろ議論しましたが結局は地区介の理念とは違うということで終わりました。介護を仕事とすると当然いろいろと規制や条件が出てきます。そうしたところは概ね理解しているつもりですがわたしの大きなストレスとなっているのは個々の対応の仕方です。
わたしは24時間介護を必要としていますしそのほとんどをヘルパーにお願いしてどうにか暮らせているところです。24時間のケアを埋めるには一事業所では無理なのでわたしのところには8事業所の人に入ってもらっていますが各事業所夫々に特色があります。業績重視、時間重視等色々ですが内容重視とはなかなかいかないのが現状です。わたしにとっては普通の事なのに「できません」「知りません」と言われては諦めるしかありません。ヘルパーには気を使います。何度も同じ事を言わされた時、仕事を覚えない時などにちょっと大きな声を出すと逆ギレされます。料理が不味いとか、オマエなどと言ってしまったものなら猛烈な抗議を受け二度と来なくなります。大声やオマエなどと言ってしまうにはそれなりに理由があるのですがねぇ… 言わないに越したことはありませんが逆ギレするのは「やってやっている」という意識や「感謝されて当然」と思っているのではないのですか?一生懸命やっても一時間、出来ませんでも一時間?利用者には選択権がありません。弱者の居場所は30年前に戻ってしまいそうです。
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せいかつ2

地域生活をはじめて一番最初に利用した公的サービスはヘルパーでした。当時ヘルパーの派遣は週3回、一回2時間が限度で主に家事で掃除洗濯、近所での買い物でした。ヘルパーになるには年齢制限があってある程度の人生経験が必要だったのかもしれません。
ヘルパーにお願い出来るのは 生活に必要な最小限のことだけなので他のことは自助努力するしかなくわたしも新聞の投稿欄などでボランティアを募ったり、ポスターを貼ったりした。当時は重度の障害者が単身で地域ぐらしをしているのがめずらしかったのか、思いやりの心をたくさん持ち合わせている多くの人たちからの問い合わせがありました。勿論善人ばかりではなく妬みや嫌がらせのような電話も何度もかかってきました。直接家まで来てくれた人もいましたがそのうちの半分の人は一度きりで連絡も無くなりました。残った人たちも数回は来てくれましたが一人二人と遠ざかりすぐに淋しくなりました。そこで学んだわたしのボランティア感はわたしのような単身生活の障害者には難しい存在だということでしょうか?何がそう思わせたのかと言いますと、わたしの呼びかけに集った善人たちはわたしのためにと人それぞれが部屋の配置から食事など教えてくれました。そして次にきたときに自分の指導どおりになっていないと不機嫌になりました。ときには見ているテレビ番組や聴いている音楽まで否定されたりしたのです。これは極端な例なのかもしれませんが当時施設に収容されていた障害者に対しての扱いはこんなものでした。しかしこの程度のことなら自分の強い気持ちでどうにかしてきましたが、どうにもできなかったのは皆さん時間や約束にルーズなこと、当時わたしは多少仕事をしていたのですがそこに支障が起きたり他の訪問者との関係にも微妙に影響がでてしまったのです。私の望む地域生活は訪問者に気を使い、訪問者同士の関係に神経を使うこんなはずじゃなかったとするイライラが我儘なわたしですから顔や態度が顕著に表現したので⁉︎
人がいない寂しさが人に合わせて暮らすことに優ってしまう、自分からこの指とまれをやっておいて、もうやめた‼︎なんて…我儘なんです。でもその時に集った善人の一人とは30数年後の現在も友人で一緒に還暦を越えました。

せいかつ

せいかつ
わたしが地域生活を始めた時、施設で知り合った知人友人の手助けを受けて暮らしていたが、わたしの持ち前の我儘が原因で皆んな離れて行ってしまい現在は誰もいない、皆んないなくなって一番困ったのはお風呂でした。半年程は福祉事務所と交渉して「便利屋」を頼んでいたのですがそこが廃業して10日に一度とか2週間に一度しか入れなくなっていた時に地区介護者会議の人たちと出会い、 その出会いがわたしの人生を決めたのです。
地区介と出会ったことでわたしの暮らしは大きく変りました。お風呂だけでなく外出もしやすくなり、寄る人のいなくなった隙間だらけの家に若者たちの熱い思いが広がって行くのを肌で感じた日々でした。地区介護者会議には在仙の複数の大学の学生や社会人もいました。差別や偏見が横行する社会の不平等に対して純粋な青春の怒りに似た思いが障害者に目を向けさせたのかもしれません。そうした人たちと接することでわたしの考えも大きく変わっていきました。子供の頃から「人に迷惑をかけてはいけない」と仕込まれてきたわたしは他人の手を借りるのは迷惑なことなのだと思い、兄弟にすら頼み事も弱み(弱音)も見せないようにして生きていて、地域生活を始めても社会に引け目を感じながら暮らしていました。タクシーの乗車拒否、ガラ空きの飲食店でも入店お断り映画館でも追い出しを迫られる。そんないる場所のない社会の中で必然(?)に出会った介護者たちに人生の指針を示された。とわたしは感謝しています。
それからは地区介で知り合った仲間たちとバスを乗り継いでいろんな大学や街でビラをまいて介護者募集をしたり他の障害者の支援活動など行動範囲が限りないのではと思うほど広がったのです。
介護者は手を貸してはくれますが基本的に自分で出来ることには手を出しません。バスなどに乗る場合乗降口から中にいる乗客に「すみませーん、乗るのに手を貸してくださーい」と声を掛けて手伝ってもらい乗り込むのですが初めはこの「すみませーん」がなかなか出なく半ばヤケクソ気味に何とか声を出しました。停留所で待っていると植え込みのあるところに停められて車椅子では乗降口にも近付けない時などに介護者が運転手に言って後退させて乗り込んだりしていました、他にも乱暴な運転などへの不満などバスに乗るの一つからでも社会にかかわりながら生きはじめたはじまりのはじまりでしょうか?

たけのこ

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雨後の筍、と言いますが雨が降らなくともよく伸びて摘むのに手間をとられています。たけのこは摘むとは言わないでしょうがわたしは摘んで捨てているのです。
この捨てられるたけのこは10年近い前に介護者と散歩の途中捨てられているのを拾ってきて部屋の前の植込みのところに植えたものです。わたしの部屋からは隣の棟と駐車場しか見えず、季節感どころか風の有無も感じることができなかったので、いろんな苗木を買ってきてそれぞれが植えた介護者を思い出す記念樹になっています。
竹は3年ほどしてから少しづつ増え出し、初めの頃は毎年今頃が楽しみで毎日数えたりして、七夕飾りを付けたいという人にあげたり器用な介護者に針金ハンガーと手頃な竹で鉤棒を作って貰い届かないものを引っ掛けて手元に引き寄せたり、頭など掻く便利棒として使っていますがここ数年増えすぎたのとコンクリートの囲いの中に植えたのですが、驚くほどの生命力でコンクリートの下の土のところまでかい潜り他の部屋の植込みにまで侵略しはじめたのです。放ったらかしにしておいては数年で竹藪になってしまい周りに大変な迷惑をかけてしまうので、毎日毎日たけのこのうちに欠いては捨てているのですが、向こうは向こうでこれでもかと芽を出して竹になろうと空を目指し、わたしはそうはさせじと目を光らせる。
そんな攻防戦が続いているこの頃ですが梅雨に入ると今年の合戦も終わります。 もうすぐです。
え~、もう入梅!! (この文は5日の夜に書きました)